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◆◇◆第5回
今回は、中国国民党と共産党についてお話ししましょう。
清王朝は、中国の人口の大部分を占める漢民族ではなく、満州族の支配する国家でした。
清王朝は異民族支配と専制政治に対する反発により、1911年倒されます。
これを辛亥革命といいます。
そして翌1912年,革命指導者孫文を臨時大総統とする中華民国が成立しました。
しかし孫文は、軍閥の首領であった袁世凱の圧力により、袁世凱に臨時大総統の地位をゆずってしまったのです。
これ以降中国では,日本における戦国大名のような各地の軍閥がたがいに抗争する政治情勢となっていきます。
各地の軍閥のバックには欧米列強の姿があったことはいうまでもありません。
孫文は、そういった軍閥に対抗するため、1919年に中国国民党を結成し、広東を中心に中国南方に支配を広げていきます。
一方、1921年には李大釗、陳独秀らによって中国共産党が結成されます。
中国共産党は、1919年にレーニンがモスクワで結成した共産主義の国際組織であるコミンテルンの主導により結成された組織でした。
本来共産党は、国家の完全な廃止を唱えているので、既存の政党とは対立するものなのですが、国民党は、各地の軍閥ならびに欧米列強に対抗する目的などから共産党と1924年に提携します。これを第一次国共合作といいます。
1925年、孫文の死後、蒋介石が国民党をひきつぐことになります。
蒋介石は,1926年北方の軍閥を打倒して中国全土を統一するため、国民革命軍をひきいて北伐に乗り出します。
この時、南京に樹立されるのが中国国民政府です。
1927年、共産党はコミンテルンの指導のもと、上海に自治政府を作ろうとします。その結果、共産党は、国民党と対立、第一次国共合作は事実上崩壊し、国民党と共産党は内戦の時代を迎えるのです。
閃光のナイトレイドの舞台となった1931年には、共産党の毛沢東は江西省の瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立し、共産党と国民党の対立は深刻なものとなっていきます。
共産党は、当時搾取の激しかった資本家階級を打倒し、労働者階級のための理想的な社会を建設することを目的にしていました。
そのため、愛玲が夏のような人だと慕った西尾のような理想に燃える若者たちが運動に手を染め、はかなく命を散らすことも少なくなかったといえます。