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◆◇◆第6回
今回、大アジア主義という言葉が出てきました。
この大アジア主義は日本が十五年戦争に至る上での重要なキーワードになる言葉と考えられますので、詳しく説明していきます。
大アジア主義とは、アジアにおいて国家の独立を唱えている革命勢力を支援していこうという考えから発したもので、日露戦争の頃より唱えられてきました。1930年頃には、日本を盟主としてアジアの新秩序を構築していこうという考えに発展していきました。
平たくいうと、「ヨーロッパの国々が植民地侵略することのない、すべての国家が独立しているアジアを、日本を中心につくっていこう」という考えということになります。
この思想は、近衛文麿のブレーンの一人であった後藤隆之助が主宰した昭和研究会の手によって政策化され、太平洋戦争において日本が掲げた戦争の大義名分である「大東亜共栄圏」に発展していきます。しかし、これらの動きの中で、大アジア主義は、日本によるアジア侵略構想に形を変えていくという不幸な運命をたどっていくことになったわけです。
なお、本編での会議に出席した仏印とはフランス領インドシナで現在のベトナム、ビルマとは現在のミャンマー、マラヤとは現在のマレーシアのことです。
さて、今回登場した日本の右翼の大物と目される老人ですが、右翼の巨頭であった頭山満の晩年の写真に似ていると思ったのは私だけではないかも知れません(笑)そこで、頭山満について一言。
頭山満は大アジア主義を唱える政治団体玄洋社の総帥でした。徹底して在野の立場を貫き、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウといった革命運動家が日本に亡命した際にも積極的に援助をおこなった人物でした。
頭山が目指していた大アジア主義は、日本がアジアを植民地化するのではなく、アジアの理想的な連帯をおこなっていこうとしたとみられています。そのため頭山は、関東軍がおこなった満州国建国のやり方には憤慨したといわれていますし、先ほどお話しした「大東亜共栄圏」構想には徹底して反対の姿勢をとったとのことです。
高千穂勲が、もし実在の人物であれば、頭山満の唱える大アジア主義ももう少し違った形で実現したいたのではと思いを馳せてしまうものです。