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◆◇◆第7回
今回、最後におこった爆破事件を柳条湖事件といいます。柳条湖事件は、1931年9月18日に関東軍参謀の石原莞爾が中心となった、奉天郊外の柳条湖における南満州鉄道の線路を爆破事件です。関東軍は、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始、満州事変がはじまることとなります。
今回は、満州事変にいたるまでの経緯をお話ししましょう。
前に軍閥のお話しをしましたが、満州地域は張作霖という軍閥が実権を握っていました。張作霖は非常に親日家であり、日本の満州経営もある意味「共存共栄」の形をとっていたともいえます。しかし、中国国民革命軍の蒋介石が中国統一を掲げ、北伐をはじめるあたりから状況は変化していきます。反日を掲げていた蒋介石は張作霖に対して国民政府への帰属を要求し、戦闘を仕掛けます。戦闘の結果、張作霖軍は国民革命軍に敗北します。
すると、関東軍の一部に、張作霖を排除して満州を直接支配するという考えが台頭してきました。1928年6月、関東軍は独断で張作霖を奉天郊外で列車ごと爆破して殺害、これをきっかけに軍事行動をおこしましたが、満州占領は失敗に終わりました。これを満州某重大事件といいます。
張作霖爆殺の結果、張作霖の子で後継者であった張学良は、満州全土を国民政府に帰属させます。父を殺された張学良は、一転、親日の態度を翻すわけです。 中国では不平等条約撤廃・国権回収を要求する民族運動が高まり、1931年には国民政府も不平等条約の無効を一方的に宣言する外交方針をとるようになりました。 このように、中国で国権回収の民族運動が高まっているころ、日本軍や日本国内の右翼は「満蒙の危機」をさけびはじめます。関東軍は、中国の国権回収運動が満州におよぶのを武力によって阻止し、満州を中国の主権から切り離して日本の勢力下におこうと計画しはじめるのです。
関東軍の行動根拠となるのが、番組冒頭に登場した『満蒙問題私見』です。これは、石原莞爾が1931年5月にまとめたものです。
石原莞爾は、満蒙(満州(中国東北部)と内蒙古(モンゴル南部)のこと)を国防上の拠点とし、満蒙問題解決の唯一の方法は、満州を日本の領土とすることあるという立場に立ちます。ここで、石原莞爾は、満州は満州民族の住む地域であり、中国の国権回収運動の対象地ではないとの立場をとります。
満州は満州民族の住む地域であり、漢民族が支配する地域でない。この理論は、満州は日本が支配する地域でもないということにもなります。そのため、満州は日本の支配という形ではなく、関東軍主導による満州国が支配するという形をとります。満州国の執政には、満州族の溥儀が就任するわけです。彼は清朝最後の皇帝であった人物です。
ところで、奉天にあった料亭菊文は、実在した料亭です。板垣征四郎高級参謀は、建川美次少将を菊文に半軟禁状態にし、柳条湖事件は実行されたわけです。