歴史ナビゲーター・金谷俊一郎氏のワンポイントコラム

◆◇◆最終話


雪菜の最後のモノローグにもあるように、溥儀の皇帝即位式典は満州民族の国家成立という理想からはかけ離れたものでした。
満州国の即位式典であるにもかかわらず、溥儀は満州族の民族衣装である龍袍の着用が許されず、満州国軍の軍服である大総帥服を着用させられての即位式となりました。また満州国政府からは、この即位について「これは清朝の復興を意味しない」との旨の声明も出されます。いずれも関東軍の強い意向によるものです。

また、1937年に交わされた念書には、満州国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の配慮により次期皇帝を定めるとされています。これも当時溥儀に男子がいなかったことを見越しての念書であり、満州国を名実ともに関東軍のものにしようとしていたことが伺えます。

同じ1937年、北京郊外の盧溝橋での軍事衝突を契機に日中戦争が勃発。日本は国民政府の首都である南京を制圧し、国民政府は中国奥地の重慶へと逃れます。そして南京には、1940年満州国同様の傀儡政権である南京新国民政府が樹立されるのです。

しかし、これらの日本の動きに対して、中国に租界を設定していた欧米諸国が反発します。欧米諸国は、重慶にいた蒋介石への援助をおこないながら、日本に対する包囲網を強めていきます。1940年、アメリカが日米通商航海条約を廃棄したことから、日本は物資の調達が困難となり、石油やアルミニウムの原料であるボーキサイト、ゴムといった資源の確保を目的に東南アジアに進出していきます。
この日本の動きは、日本の経済封鎖をますます強める結果となり、日本はついには米英に対して宣戦布告をおこない、1941年太平洋戦争がはじまるわけです。

同じ頃、当時ドイツを中心とした枢軸陣営が原子爆弾の開発をしていることに危機感を抱いたアメリカが、原子爆弾の本格的な開発に乗り出します。これをマンハッタン計画といいます。この開発には亡命したユダヤ人をはじめ、多くのノーベル賞受賞者が参加します。原子爆弾投下後にノーベル賞を受賞した学者も多くいました。ちょうどこのころ、ウランよりも爆発力の高いプルトニウムも発見され、ウラン爆弾とプルトニウム爆弾の開発が進められることになります。この結果、1945年に3個の原子爆弾が完成するわけです。

原子爆弾が完成した直後、1945年の7月には、日本との交戦国であったアメリカ・イギリス・中国は日本に対してポツダム宣言の受諾を要求します。日本に対して無条件降伏をするよう要求するわけです。そしてアメリカは、日本がこの無条件降伏にしたがわなかったことなどを口実に原子爆弾を投下します。8月6日にウラン爆弾が広島に、8月9日にプルトニウム爆弾が長崎に投下されます。
原子爆弾投下などを受けた日本政府は、ついにポツダム宣言の受諾をおこない、8月14日、日本政府は終戦の詔勅を発令。8月15日の正午からのラジオによる天皇の玉音放送により、日本国民は戦争の終結を知ることとなります。
この後アジアの国々では国家独立運動がおこり、アジアのほとんどの国が欧米支配から脱却し独立を果たしていくことになります。

アジアの欧米支配からの脱却のために立ち上がった高千穂勲をはじめとした若き将校たちの理想は、奇しくも彼らの思っていた形とはまったく異なる形で実現したという形になるわけですが、その代償は果たして彼らの思っていたものと同じだったのかと思うと考えさせるものがあります。

その後も、抑止力としての世界の軍事力は膨張を極め、また世界各地では紛争が相次いでいます。そのような中でも、彼らのように真の意味での平和を一人一人が望んでいくことこそが大切なのではと考えさせられると同時に、我々も持ち続けていきたいと思いました。

せめて希望のかけらを…

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